第2章 摂食障害 闘病期 もくじ
摂食障害 25 年、ひきこもり 10 年の克服者、森山 華伊の自分史です。
↓ 摂食障害発症にいたる潜伏期はこちらです。
第2章 摂食障害 闘病期
8 年間隠していた食や体重へのこだわりが、摂食障害という病気であったと気が付き、
26 歳ではじめて病院につながりました。
それから約 10 年間の入退院を繰り返すひきこもり生活から社会復帰、そして克服までを書きました。
摂食障害を通してたくさんのことを学びました。
現在悩まれている方々やご家族、ご友人へ、なにか少しでもヒントや希望になれたらうれしいです。
1994 年( 18 歳)から 8 年間、周囲に隠していたことがあります。
それは、とても恥ずかしく、墓場まで持っていこうと思っていたことです。
両親も友達も、誰も知りません。
大学 1 年生の時にダイエットをしてから 3 年程は自分の食欲や体型をコントロールできていました。
しかし、ある時から無性に食べたくなり、冷蔵庫を漁るようになりました。
家中の食べ物や調味料をむさぼりました。
炊飯器の窯ごと、しゃもじで一度にご飯を 7 ~ 8 合も頬張ることもありました。
人間ではなく獣でした。
それはいつも人目を盗んですることで、人前では絶対に見せない姿です。
食べ過ぎたり絶食したりの繰り返しで、標準体重を維持できることもあれば、絶食に失敗して 10 kg 単位で体重の変動が激しく増減を繰り返すこともあります。
一番激しかったときは、 1 ヶ月で 30 kg も太ったことがありました。
過食とは別物の範疇である普段の食事は完全なヘルシー志向か、全く食べないかのどちらかです。
ヘルシー食でも、最初はカロリー計算をしてバランスの良い組み合わせを考え、毎食欠かさず料理していましたが、 5 年も過ぎる頃にはメニューを考えることやカロリー計算をすることが面倒になり、ある時から毎日同じものを作って食べるようになっていました。
思い煩うことが減り、これさえ守っていれば体重が増えることはないという安心感を得るためです。
この頃には食事に対する楽しみも喜びもなく、常に脅かす存在でありながら、生きていくためには完全に絶つことはできないという葛藤の連続でした。
食べ物を食べているというよりも、餌を食べさせられているといったイメージでしょうか。
ある時、名案を思いつきました。
どんなに食べても太らない方法をです。
食べ物を口に入れ咀嚼し、飲み込まずゴミ袋に吐き出せば良いではないか。
これなら普段禁じている甘いものを思う存分味わいながら痩せられると。
初めは菓子パン 1 個だったのが、次第にエスカレートし、1 日に 3 ~ 5 時間も家族の留守中や睡眠中に、食べ物を噛んで吐くといった儀式を繰り返しました。
顎関節症にもなり、親不知は虫歯になり全て抜きました。
外出先では、汚い話ですが、駅のトイレや帰宅途中の道を歩きながらすることも当たり前になっていました。
サラリーマンが帰りに一杯ひっかけると同じように、私も家に帰る前はそれをして頭を酔わせなければいられなかったのです。
バイトをしていた時も休憩時間や仕事が終わって帰るとき、公衆トイレでそれをせずにはいられず、バイト代はすべて食べ物へとつぎ込まれました。
1 日に 2,000 ~ 5,000 円、時には 10,000 円を使うこともあり、途中で記憶をなくして、気づいたらお財布にくしゃくしゃの身に覚えのないレシートを見て唖然としたこともあります。
もう何年も、両親とうまく意志の疎通がとれませんでした。
常識や正論や道徳で私を説き伏せようと、両親も苦しみました。
私は何年も押し黙り、キレイごとの檻の中に入れられそうになると牙をむきました。
家庭崩壊、このままいくと両親が狂ってしまうという限界で、私は自分が病気であったことに気づきました。
インターネットで調べたら、私と同じ症状が書かれてあり、「摂食障害」という、俗に過食症や拒食症と呼ばれる依存症であることがわかったのです。
そして、私が編み出したと思っていた、墓場までもっていこうと思っていた悪癖は、チューイングとか噛み吐きと呼ばれる症状のひとつであることも知りました。
こんな汚いことをする自分は世界中に私しかいないと思い隠してきた過食やチューイング、絶食を治したいと思いました。
日本に数少ない依存症の専門病院をネットで探し、入院を決めました。
それには両親に話さなければなりません。
この汚い自分を両親にさらけ出すことはとても恐ろしいことでした。
ショックで死んでしまうかもしれません。
面と向かって話すことはできず、置手紙に書きました。
今までのこと、摂食障害であること、これから治療していきたいこと、○○ 病院へ入院したいこと。
読んだころを見計らって家に戻ると、母が泣きながら、高校生時代のタウンページの件を何度も詫びました。
両親に一家心中をしようと言ったこと、心の中で詫びました。
数日後、山の中に隔離された精神病院へ入院しました。
摂食障害になって 8 年が経っていました。
開放病棟での入院生活が始まりました。
常時、老若男女、約 100 人の依存症患者がいます。
トイレからは過食嘔吐の苦しそうな声が聞こえてきます。
消灯で寝ていると聞こえてくる、同室の過食症者がボリボリバリバリ・・・、遠い眼差しでスナック菓子を無心で詰め込む暗闇に浮かび上がる哀しい姿。
院内にある自動販売機であずきモナカを 10 個買い、入院患者があまり来ない夜の外来のトイレで食べました。
再び自動販売機に行き 10 個、トイレで過食・・・を 8 往復して、1 時間足らずで 80 個のあずきモナカを寒さに震えながら、泣きながら食べました。
あずきモナカが食べたいわけではなく、お腹が空いているわけでもありません。
気持ちが悪いのに止まらないのです。
私は吐けない過食症で、チューイングもできなくなっていました。
とにかく胃まで入れないといけなかったのです。
その後は決まって熱が出ます。
消化のために身体中の器官がフル活動して脈がドクドク波打ち、体力を消耗して寝苦しくも深い眠りがやってきます。
過食しては爆睡の繰り返し。
当然、体重も増えていきます。
形や数字に執着していた私は、体重が増えるのは耐え難い苦痛でした。
何度も死にたくなりました。
1 週間を過ぎるころ、自ら希望し閉鎖病棟へと移りました。
ドアは外からカギが閉められ、窓は鉄格子が張られた部屋です。
これで過食をしなくて済むと思うと安心しました。
自由よりも、過食から離れたかったのです。
意志の力ではどうすることもできないコントロール不能な魔物でした。
母に何度も手紙を書きました。
買って送ってほしいものリストが届くたびに、母はそれらを揃えるため買い物に走りました。
幼いころ、一度も物をねだったことのない私が、ここぞとばかり母をこき使いました。
母に何度も、「私を殺せ!殺せ!」と手紙に書きなぐりました。
初めて閉鎖に入った夜、自分の両腕を何十ヶ所も噛みました。
翌朝、歯形の痣だらけの自分の腕を見て、誰かに助けてほしいと思いました。
ある日閉鎖病棟で、父の自殺未遂を知りました。 3 年前に 1 度、今回で 2 度目です。
多額な借金を苦に追い詰められてしたことだと後で知りました。
でも、私は自分のせいだと思いました。
その後、自己破産をしました。
この頃が親子のどん底だったと思います。
夫も娘も入院し、ひとり母はどんな気持ちだったか、この頃の私は思いやる余裕もなにもありませんでした。
閉鎖病棟に、もう 3 年も入って治療している 5 歳上の女性がいました。
すぐに仲良くなり、過去のこと、現在の悩み、家族のこと、将来の夢・・・いろいろな話をして共感し、お互いがお互いの理解者となり支えあいました。
第 1 回目の入院期間は 1 年でした。
退院して数ヶ月してから再び入院し、半年~ 1 年以上を病院で過ごすという生活を、 8 年間に何度も繰り返しました。
退院して家に戻っても、メールや電話や手紙、お互いの誕生日やクリスマスにはプレゼントを交換するのが楽しみでした。
ところが 2009 年にあることがきっかけで心がすれ違い、それきり連絡先もわからなくなりました。
時々彼女のことを想い出します。
いつか笑顔で会いたいと願っています。
毎回の入院で、まずは必ず閉鎖病棟へ入りました。
過食漬けの身体をリセットさせるためです。
数ヶ月して開放病棟へ移り、過食に対する敗北感と罪悪感に打ちひしがれ横になっていると、開け放った窓からクラシック音楽が聞こえてきます。
ブルックナーの交響曲 8 番です。
この時の胸の高鳴り、身体中の細胞が歓喜に走り回った感覚は忘れられません。
音楽に挫折してから何年も音楽を聴けなかったのですが、このとき聴いた調べは、未来に希望を見出せないでいた私に救いと力をもたらしました。
「・・・・・・やっぱり私は、音楽が好きなんだな・・・」
その音楽は体育館から聴こえてきました。
アルコール依存症で入院している 60 代の男性が、CD を大音量で聴いていたのです。
クラシック音楽が大好きなことがわかり、音楽の話で意気投合しました。
音楽が聴こえてくると、体育館へ行って一緒に鑑賞するというのが自然にできた日課となりました。
体育館にはピアノがありました。
初めは避けていたのですが、徐々に長年封印してきたピアノを、誰に聴かせるわけでもなく自分の喜びのために弾けるようになっていきました。
他力本願と言われればそれまでですが、これまでに私は色々なものに救いを求めてきました。
霊視、お祓い、パワーストーン、風水、お寺で座禅会、お墓参り、神社参拝、瞑想、占い、水晶、カウンセリング、毎日の真水かぶり、趣味、栄養学、心理学、哲学、倫理学、一人旅 ・・・。
どれも、過食の魔力には敵いませんでした。
入院生活でどのような治療をしたかというと、摂食障害、アルコール依存症、薬物依存症、共依存、アダルトチルドレン、万引き癖、その家族といったグループに分かれ、同じ問題を抱える者同士が自分の話をして仲間にきいてもらうというプログラムをこなしていきます。
ルールとして、安心して自分の話ができるように、グループは批判せずに静かにきき、グループ内での話は外へ持ち出さないということを守らなくてはなりません。
この棚卸作業を毎日続けます。同じ話でも何度もします。仲間の話を聞いて共感したり、自分だけが苦しいのではなく、分かり合える仲間がいるというのが大きな支えとなり、自分のことを話すことでこれまでの人生や現在抱えている問題、今後どうなっていきたいかを整理することができるのです。
時間はかかりますが、このようなミーティングを毎日続けることが回復の道とされています。
退院してからも院外の自助グループに通い、棚卸作業を続けていき、自分のことを深く掘り下げていきます。
私の場合は、入院中はミーティングに参加しましたが、退院中は家にひきこもって過ごしていました。
外出するときは、帽子を目深にかぶり、マスクをして、黒っぽい服装で、人通りのない薄暗い道を歩きました。
電車に何年か乗れない時期がありました。人目が怖かったからです。
治療のために両親と距離をおいたほうが良いという診断で、2003 年から 2011 年 5 月まで福祉に支援していただき、一人暮らしと入院生活を繰り返していました。
入院中に夢中でしていたことがあります。
通信講座で覚えたビーズでアクセサリー作りです。
他にはアロマテラピーやガラスフュージングなども通信で学びました。
入院中とはいえじっとしていられない性分で休むことができない、自分でも困ったものです。
退院中は、シルバーアクセサリー制作も覚えました。
イメージしたものが形になっていく過程や、カラフルな輝きのビーズや、自然の香りで癒されるアロマは、視覚や嗅覚、触覚を刺激して楽しかったです。
色彩や香りにも人を元気にさせる力があることがわかりました。
とにかく好きなこと、興味を抱いたものがあれば、片っ端からやってみるのが私流です。
長い入院生活で 2 人のソーシャルワーカーさんにお世話になりました。
東京や埼玉での展示会では、遠方から顔を見に来てくれました。
全部で 500 点を超える作品は、展示会で販売の他、友人にプレゼントしたりして、手元に残ったのはわずかです。
私の分身たちが、どこかで誰かを楽しませているかと想像すると嬉しくなります。
高校時代の友達も一緒に楽しんで応援してくれました。
将来の社会復帰のために医療事務や調剤事務の講座、パソコン教室にも通いました。
日記を開くと、どのページも紙面いっぱいに、ミミズのような小さな文字が走り書きされています。
今見ると薄気味悪いですが、これも通ってきた私の人生です。
ひきこもりの時、自分をとても弱く感じました。
両親が亡くなったら、どうやって生きていけばいいのだろう。
このままの私では一人で生きていけない。
誰もいない独り暮らしの部屋で、ため息まじりの「死にたい・・・死にたい・・・」が独り言の口癖になっていました。
コンビニやスーパーをハシゴして、大量の食べ物を両手に抱え、帰るまで待ちきれず、アパートのエレベータから早々に始まる過食。
菓子パン 30 個、ホールのケーキ、生クリームをてんこ盛りの食パン 1 斤、コンビニ弁当、シュークリーム、アイス、クッキー・・・、1 ~ 3 時間で 1 万キロカロリーは食べました。
気持ちが悪いし、お腹がパンパン、喉元まで詰まっているのにやめられないのです。
身体の苦しさと過食の罪悪感、焦燥感でいっぱいでした。
私は拒食より過食のほうが辛かった。
拒食期では見た目から弱くみえるので周囲もわかってくれますし、身軽で活動的にもなりますが、過食期では標準体重かそれ以上なので、見た目は元気に見えるわりに、抑うつと対人恐怖が蔓延してきます。
好き勝手に食べたいだけ食べて、仕事もせずに一日中横になっている怠け者としか見られず、それに過剰に意識してしまう醜い脂肪の存在が上乗せされ、絶望的に思えたのです。
「そんなに苦しいなら食べなければいいのに」とか、「食べ物を粗末にしてもったいない」など、普通の人は思うでしょう。
その普通のことができないのだと言っても、わかってもらえないのです。
母は心配して、同じ市内の私のアパートによく様子をみに来てくれましたが、顔を見合わせず玄関先で帰ってもらうことがほとんどでした。
こんな惨めな姿を見せたくなかったからです。
ひきこもりの時、我が家にやってきた、「過食を止めたろう」の、とめ太郎。
2005 年 2 月 8 日生まれの男の子です。
5 年間、家族に笑顔を運んでくれました。
犬を見るたび、想い出します。
作曲の先生のお宅での一枚
2009 年から 2010 年にかけての最後の入院中では、通信の芸術大学で勉強しました。
作曲家の先生に師事し和声法を学ぶと同時に、卒業制作で弦楽四重奏曲を作曲しました。
昼間の体育館のピアノや、夜中のテレビ室に持ち込んだ電子ピアノを最少音量で弾きながら作りました。
たくさんの入院患者さんや病院スタッフさんに励まされて完成した作品です。
将来、作曲家になりたいという新たな希望ができました。
後日、ProTools で打ち込みして録音したものがこちらです。
入院先で和声の課題を解き、先生宅に送り添削していただくやり取りが何往復も続きました。
String Quartet "ANAMNESIS" in F sharp minor
Ⅰ Allegro appassionato
https://soundcloud.com/moriyama-kai/anamnesis-1
Ⅱ Adagio ― Andante cantabile
https://soundcloud.com/moriyama-kai/anamnesis-2
Ⅲ Allegro Moderato
https://soundcloud.com/moriyama-kai/anamnesis-3
Ⅳ Allegro vivace
https://soundcloud.com/moriyama-kai/anamnesis-4
上の手書きの楽譜から finale で楽譜浄書した譜面の一部。
第 1 楽章の展開部の終わりから再現部の冒頭部分。
32 歳で再び大学生となり、作曲家になる希望ができたにもかかわらず、まだ自分自身に確信が持てず不安と疑心に満ちていました。
「これでいいのか?」という答えのない問い。
永遠に続きそうな勢いの過食の嵐と鬱の極み。
「なんとかしたい。このままでは命がもたない。」
インターネットで悩み相談を検索しました。
宗教やあやしい匂いには敏感なので、ふるいや天秤にかけるのは得意です。
多くのサイトのうち、「これだ!」という、ある易者さんのホームページがありましたが、1 週間位悩みました。
他の方の相談に対する返答の文章を読むと、とても怖そうな先生という印象を持ったからです。
しかし、何度も納得がいくまで書き直されていたり、真剣に語られる膨大な量のファイルを読み、画面から飛び込んでくる何かを感じたのです。
やがて決心しました。
勇気を出し、2008 年 9 月に、ネット上の掲示板に相談を投稿しました。
掲示板でのやり取りの数日後、直接メールで鑑定と改名の依頼をし、「森山華伊」と命名いただきました。
当初両親は、改名に対し良く思っていませんでしたが、しばらくすると「華伊さん」と呼んでくれるようになりました。
それからはどんなに過食や鬱になっても、「大丈夫、大丈夫。」と言い聞かせ、未来にかかる希望の虹を信じました。
「このまま他者に守られた暮らしを、後ろめたい気持ちで続けていくことはできない」
自立してひとりで生活するという選択肢もありましたが、79 と 74 の高齢の両親を関東においていくことはできませんでした。
最期こそ、父の生まれ故郷である神戸で、親子 3 人で仲良く暮らしたいという願いがありました。
転居の準備や手続き等諸々、すべて私がやりました。
1 ヶ月後には勤務先も決まりました。
7 月に開院する病院での滅菌の仕事です。
晴れて 10 年振りの社会復帰です。
普通は、週に 1 ~ 2 回を 2 ~ 3 時間という時間枠から徐々に増やしていき身体を慣らしていくようですが、勝気な私はいきなりフルタイムから始めました。
職場は開院前の準備で慌ただしく、連日残業で帰宅は 23 時を回ることも少なくありませんでした。
家と職場との往復ばかりで、まだ神戸という街も知りませんでした。
最初は緊張して過食も手におえる程度でしたが、 3 ヶ月が過ぎる頃、過食と拒食が日常生活を上回ってしまう瀬戸際にきたとき、自分から会社に申し出て、診断書を提出し、しばらく 5 時間勤務に時間枠を減らすことで了承をいただきました。
一方、8 年振りの両親との同居も予想以上にうまくいきませんでした。
いつも食べ物やコミュニケーションのことで言い争いが絶えませんでした。
家にいるときは相変わらず、自分の分だけの食事を作り、自分の部屋にこもり、ひとりで食べます。
過食の時も、絶対に親に見せられない姿なので部屋に隠れてします。
自分の存在を知られたくなくて、抜き足差し足で歩き、ドアの開閉も音が出ないように注意しました。
目を合わせることも、触れられることも、声を出すこともできませんでした。
外側は、9 年前の入院時と何も変わっていません。
両親との諍いの根源は自分にあることはわかっていても、母の手料理を食べること、家族団欒に加わることが、どうしてもできないのです。
仲良くしたい反面、離れたいというアンビバレントな感情は、「食べたくない、でも食べたい」というジレンマと似ています。
どちらも本当の自分であるのですが、その両極端な暴走に何度も引き裂かれそうになりました。
職場で忘年会や新年会などの会食は何年振りだったでしょう。
乳製品やアルコールのアレルギーをもっていると嘘をつき、野菜とウーロン茶でその場をやり過ごしました。
しかし、ひとりになった途端、緊張が解けて、過食に走るのがオチなのですが・・・。
どっちみちそうなら、普通に会食を皆と同じように楽しめばいいのですが、普通のことができない状態が何年も続きました。
2011 年 11 月 13
日から、12 年振りにピアノのレッスンに通いはじめました。
エチュードにバッハ平均律、曲というカリキュラムで基礎からやり直すことになりました。
ひとつかふたつ年下の先生ですが、私の鈍ってしまった感性や感覚を呼び覚ますように、丁寧に音楽を教えてくださいました。
翌年、初心者でも OK なティンパニを募集している楽団をネットで探したところ、大阪に 1 ヶ所だけありました。
1 ヶ月位悩みましたが、勇気を出して問い合わせ、 8 月 26 日に見学に行くことになりました。
オーケストラはもちろん、合奏経験は皆無に等しく、楽器に触れたことも見たこともないのに、「ティンパニをやってみたい」という気持ちひとつで行きました。
本当に初心者が来たのは初めてだったようで、楽団の方々も驚かれたでしょう。
11 月にひかえている演奏会の「フィガロの結婚」と「フィンガルの洞窟」と「イタリア」の練習をしていました。
試奏と話し合いの結果、打楽器の先生についてレッスンを受けることになり、入団の許可を得て、毎週、往復 5 時間かけて練習に通いました。
入団から 8 ヶ月後の 2013 年 5 月 19 日に演奏会デビューができました。
ラフマニノフのピアノ協奏曲 第 2 番ではティンパニを、チャイコフスキーの交響曲
「小ロシア」ではバスドラムと銅鑼を、アンコールの「眠りの森の美女」ではグロッケンを演奏しました。
どうしたらよい音が鳴るかについて、こんなに悩んだことは初めてでした。
毎週日曜日に練習があると思うと、辛いことも乗り越えることができました。
フルートの先輩には公私ともにお世話になりました。
一緒に美術館で絵を鑑賞したり、小麦が食べられないという私に芋餅を作ってくれたり、演奏会の前日は泊めていただいたりと、何かと気にかけてくださいました。
演奏会のプログラムやチケットの挿絵、解説文を作るという仕事をいただき、納得いくまで校正を重ねるやりとりも、とてもやりがいがあり楽しかったです。
私に自信をもってもらおうと、子供の部分が多いにも関わらず親切にしていただき感謝しています。
2014 年 9 月14 日 あべのハルカス美術館にて
なぜティンパニがやりたかったか。
高校時代の副科の授業で合奏がありました。
私は数ある打楽器のうち、あまり人気のないバスドラムを選びました。
合奏でバスドラムを打つたびに膨らむ高揚を抑えるのに人知れず必死でした。
身体中を流れる血液が沸騰するかのように熱くなりました。
あまりの熱狂に身体のサイクルがおかしくなるほどでした。
高校のどの授業より合奏が楽しかったです。
同時期に夢中で読んだベルリン・フィルのティンパニー奏者 テーリヒェンの著作、「フルトヴェングラーかカラヤンか」に深い感銘を受けたこともふと想い出しました。
その昔の感動の組み合わせがきっかけで、オーケストラに入団できたことは本当に喜びでした。
私の好奇心はその後も途絶えることはなく、2013 年 4 月 2 日からはエレキギターを、6 月 14 日からはジャズピアノも始めました。
4 年と 6 ヶ月前に改名してから通称名として使ってきた名前を、正式に戸籍から改名する手続きをしました。
まず家庭裁判所へ行き手続きの用紙をもらいました。
なぜ改名が必要なのかなどの必要事項を記入し、後日郵送しました。
数日後、家庭裁判所から呼び出しの連絡を受け、2013 年 4 月 15 日に膨大な量の書類をトランクに詰めて面談に持っていきました。
トランクには 4 年と 6 ヶ月間分の「森山華伊」宛で郵送されてきた約 300 通の郵便物の原本と、そのコピーを 2 部ずつとった証拠の山です。
担当者の前でトランクの中身を広げて見せると、これだけの量を年ごとに分類、保管して、今日の面談に臨んだ私に気迫を感じられたのか、何度もため息をつきながら驚いていました。
裁判官に提出するのは 1 年に 1 通で良いとのことで、 2008 年から 2013 年までの各年の 1 通を長い時間をかけて一緒に選別しました。
通称名としてどれ程浸透しているのか、なぜ改名が必要なのか、名前の由来、借金や犯罪の有無についてなども訊ねられました。
本来は通称名として 5 年以上の使用が証拠として認められなければ難しいとのことでしたが、面談から 1 週間後の 2013 年 4 月 22 日付で審判の結果が郵送されました。
正式に「森山華伊」となり、戸籍から改名をしました。
ある日勤務先の病院の社員食堂で、病院の案内の仕事をされている女性(H さん)に話しかけられました。
お昼の休憩時間に和声の勉強やオーケストラのスコアを読む姿を見て気に留めてくれたようでした。
なんと H さんも音大出身で最近までオペラ歌手をしていたとのこと。
現在は病院勤務の他、自宅で子供たちにピアノを教えているというのです。
音楽と関係のない病院の社員食堂で、ピアノの先生に出会えるなんて、とても驚きました。
それからは、お昼の休憩が重なると一緒に食堂で会話を弾ませ、親しくなるのに時間はかかりませんでした。
この出会いは、戸籍から改名する手続きを進めている時期と重なり、見えない何かの必然性を感じずにはいられません。
その 1 ヶ月後、H さんから、「今度ピアノの発表会があるの。生徒全員がソロと連弾をやるのだけど、私は忙しくて練習の時間がなかなかとれないので、連弾のセカンドを弾いてもらえないかしら。」とお話をしてくださいました。
私は快諾し、後日譜面のコピーをいただいて練習しました。
生徒は 14 名で、そのうち私が引き受けたのは小学 5 ~ 6 年生の女の子 3 名です。
プログラムはチャイコフスキーの「花のワルツ」、バッハの「G 線上のアリア」、いきものがかりの「エール」の連弾です。
特に「エール」が難しかったのですが、はじめてポピュラー音楽を弾きながら楽しいと感じました。
この感動がきっかけで、ジャズピアノもやってみたいと思うようになったのです。
本番前の 1 週間ではじめて生徒たちと合わせました。
いつもひとりで練習するのとはちがい、椅子の座る位置も違うので、弾き始めの音の高さがわからなくなったり、手がよくぶつかったり、相方の手の下をくぐったりと、予想していなかった色々なことが起こるのでアタフタしました。
これまで子供が苦手だったのですが、純真無垢な心に触れて、はじめて「かわいいな」と感じました。
発表会の当日は裏方のお手伝いも子供たちと協力して、みんなでつくっていく過程もとても楽しく、学ぶことが多かったです。
本番の演奏は緊張しながらも支えあい、素敵な音楽体験となりました。
最後に、「エール」を一緒に弾いた 6 年生の女の子から、綺麗な花束と一緒にメッセージカードをもらいました。
一生懸命に書いてくれていてとてもうれしかったです。
戸籍からの改名のご報告と、これまでの 5 年間で何度もメールで人生相談にのっていただいたことへのお礼に、易者先生に初めてお会いしました。
ご厚意からご家庭へ泊りがけで、奈良の神社仏閣や桃尾の滝を回ったり、これまでのこと、これからのこと、 3 人でたくさん話を交えて、生きていくための兵法の洗礼を受けました。
70 歳の智慧と温故知新の伝承と手料理の魔法によって、今までの凝り固まった自分から脱皮できそうです。
18 歳から苦しみぬいたアイスクリーム 80 個の過食と、 1 ~ 3 週間にわたる絶食を繰り返すという自殺行為を、今、手放す時がきたと思いました。
その後、 2 回も泊りがけで訪問し大変お世話になりました。
約 20 年の病、潜伏期間を含めれば 30 年の檻から解放された囚人の安息と岐路、今後の人生への自由なスケッチが始まります。
(2013/08/25)
庭に咲いたクロマチスを摘んでくれました。
家族で食事するテーブルに飾ってと・・・
後日、水彩で描いたクロマチス
関東から神戸に転居して 1 年 10 ヶ月の間に、3 度も病院を変えました。
理由は、先生と相性があわなかったり、摂食障害についてよくわかっていない先生だったりして・・・。
先月から母が病院に繋がってくれて、摂食障害の家族の会に出てくれるようになり、今日はそのゆかりのある医療センターで初診を受け、おそらく私よりも年下であろう女医さんと 1 時間以上話しました。
私の祖父母、両親のことから、私の37年の歩んできた道のりを淡々と。
何度となく過去のことは色々な医療現場で話してきたので、何年何月に何があって・・・という自分の年表がすらすらと言えるくらいになっています。
診察の終盤にさしかかる頃、先生の「今後どうなっていきたいか」という問いに私は、「食べ物によって人生が振り回されないようになりたい。外食や会食も楽しくできるようになり人と深く交流したい。そして、両親と普通の会話ができるように仲良くなりたい。」と答えました。
先生がおっしゃるのには、最終的な唯一の目標として、「この私でいい、という自信が持てるようになること。」と掲げていただきました。
今まで通り投薬は無しで、カウンセリングを重点的に診察と共に継続していくというプランとなりました。
自分自身のことをしっかり見つめ、病気のことも十分勉強していると褒めていただき、この 19 年は無駄ではなかったのかもしれないと、少し安堵しました。
先生は納得いくまで突っ込んで私の気持ちを聞いてくるので、私も飾らず隠さず、汚いものもさらけ出して話ができました。
摂食障害の文献から寄せ集めた情報や一般論に当てはめようとせず、真剣な眼差しをもって、一個人として向き合って話を聞いてくださっていると感じ、とても良い先生に出会えたと思いました。
誰かに受け入れてもらうために迎合したり、誰かを見返してやりたいために虚勢をはる生き方はもう選びません。小さく見せたり大きく見せたり・・・疲れます。
いつでも他人目線によって自分の言動を決めていては、虚しさがつのるばかりですから。
焦らず、諦めず、快復に向けてがんばろうと思います。
ピアノの発表会で、ブラームスのラプソディ 2 番を演奏しました。
会社の友達が二人来てくれるということもあり、練習の時からボルテージがあがり、本番は数小節右手がわからなくなったものの、リハーサルよりも良い演奏ができました。
スタインウェイのピアノの音色と、ホールの残響が耳に心地よく、今までの本番で一番心を込めて弾くことができました。
これも、ピアノの先生の表現豊かな演奏スタイルに影響を受けていることや、昨年から学びはじめたジャズピアノによって感化されてきたところもあると思います。
今後も様々な音楽に触れ、吸収し、感性を深めていきたいと思います。
発表会を終えて一週間になりますが、全身で感じたピアノから伝わる波動が忘れられません。
曲の最後、フォルテの和音が、自分が欲した通りの音が出せたので、「終わりよければすべて良し」と納得がいきました。
課題もたくさん再確認できたので、次回に向けてまたがんばりたいと思います。
後日、絵を描いてみました。
(2014/02/22)
両親と三人で仲良く暮らそうと思って埼玉から神戸に転居して三年、やはり一緒に暮らすことが難しく、精神的にも経済的にも自立し自信を得ようということで、電車で三駅離れた町で一人暮らしが始まりました。
食べ物について色々言われることがなくなった点は気が楽になりましたが、拒食や過食で食生活は乱れ放題、仕事が終わった途端に緊張が解け(緊張を解くためかもしれませんが)、コンビニやスーパへかりそめの愛を求め彷徨いました。
休日は寝たきりのことが多く、楽器やパソコンに向かう気力も失っていきました。
食べ物を憎み、渇望し、罪悪感とともにそれを飲み込みました。
これが永遠に続くのかと思うほど、先が見えず年月ばかりが過ぎていくように感じました。
追記 2018 年 10 月
同居していた時や、数ヶ月おきに実家に帰る時に自分でもわからない謎の行動がありました。
両親に自分の姿を見られるときは、わざと穴のあいた、または毛玉のついた靴下を履き、メンズの服装やバッグ、口紅はぜったり塗らない、全体的に黒っぽい色を身にまとっていました。
また、わざと食塩や歯磨き粉等の蓋をゆるく閉めたり、ぜったいに笑わなかったり・・・。
それは意識的にしていた行動(半分は習慣的)ですが、なぜそうしてしまうのかはわかりませんでした。その深層心理、今はわかります。
子供の頃、特に母は過保護で潔癖、支配的で心配性でした。その影響を大人になってからも引きずっていて、自分を抑圧した上で行動や思考を選び、ダメな子供を演じていたのだと。
子の世話をやく母と、世話をやかれることを受け入れた子との共依存関係。
「大人の自立した、幸せな女性」として見られたくない理由がここにありました。
親の愛を得るために、また、親が喜ぶために、成長を止めていたのだと思います。
人生の折り返し地点にきて思うことを、今朝書き留めておきたいと思います。
私は 18 歳で摂食障害になり、25 歳で病識をもち、アルコール依存症専門の精神病院に年単位の入院を繰り返し、 35 歳までの 10 年間は病院か自宅で引きこもっていました。
震災がきっかけで、2011 年の 5 月から福祉からの経済的援助を自ら辞退し、埼玉から神戸に転居し社会復帰を果たし現在に至ります。
長い入院生活の中で学んだことは、人は人のことは変えられないけれど、自分のことは変えていける、過去のことは変えられないが、これからの生き方は変えていける、これまでの誤った思考パターン(自分を不幸にする考え方)を修正したり、人とのコミュニケーションから相互理解を深める中で温かい人間関係を築いていくこと、その過程で本来の自分を表現し受け入れられる体験を通して自信をつけていくといった、病気そのものの治療よりも、それに至らしめた思考や親子関係の見直しに焦点を絞り、自分自身を見つめ直す年月を与えられました。
現在の私が在るのは、両親をはじめ、たくさんの人たちからの支えと、理解と忍耐のおかげです。 闇の中にいたとき、私がして欲しかったこと、してくれて嬉しかったこと、されて辛かったことと逆のことを、これからの人生で出会う人たちに帰していけたらと思います。
過去の不遇な人生を現在や未来の希望に変えていくために、今の私にできることは何かと自分に問いながら、自分も周囲の人たちもハッピーになったら素敵だと思います。
今後も迷ったり悩んだりしたとき、自分の這い上がる前の底つき(10 年間の引きこもり時代)を振り返り、そこから学び直し活かしていけたらと思います。
無駄なことは何もない、降りかかる全てに意味がある、とよくいいます。
落ち込むことも多々ありますが、その指標さえしっかり持ち続けていれば、人生なるようになる、なんとかなる、と思います。 ブログに自分の病気について書くことは控えていましたが、今朝はふと思うことがあったので、書いてみようという気持ちになりました。
過食と拒食は激しくなる一方、八時間勤務に戻した滅菌の仕事もハード、人間関係にも悩み、とうとうキャパオーバーになりました。
レッスンも先生のお話が入ってこず、文字も音も意思とは裏腹に外からの情報を遮断しているような状態になりました。
音楽を中断し、しばらく何も考えない期間を過ごし、執着してきた諸々を手放していくことが必要に感じました。
何もなくなった自分はどんなかを知りたい。
「好き」だと思っていたことが、不安から執着していたに過ぎなかったのかもしれないと。
外の世界との個人的な付き合いも疎遠になりました。
胸を張って人と交わることができず、堂々巡りの食異常に疲れ果て、NO と言えず人に合わせてしまう馴染みのパターンから抜け出す勇気もないまま、怒涛に流されていきました。
一年前から仕事をしながら転職活動、ことごとく不採用が続くうち、 四十歳で一般雇用は難しいと覚り、障害者雇用も選択肢に入れ斡旋会社に登録しました。
障害者枠でようやく転職先が決まりました。ホテルの購買課で事務の仕事です。
面接で、障害のことを当たり障りのない程度に話しました。
どのような配慮が必要かと問われたとき、月に一度の通院のための時間の確保のほかは特にありませんと答えました。
電話が怖くてうまく話せないことも、人なれしていないためコミュニケーション(外食を楽しむことも含め)が下手なことも言いませんでした。
なんとかなる!なんとかする!と自分に言い聞かせました。
入社してから一年間は予想以上に業務についていけませんでした。
同年代の方々が雲の上の存在のように感じました。まさに私は、玉手箱を開けた浦島太郎でした。
年相応の成長をしていない現実を目の当たりにし、ショックと恥じる気持ちと劣等感でますます自信を失った期間も長くあり、体重は約 10 kg 太りました。
しかし、自分の未熟さと向き合えたことは転職した一番の収穫となりました。
コミュニケーションの上手な上司や先輩を真似ることで、コミュニケーションの練習ができるチャンスであると気持ちを切り替えたとき忘れていた笑顔が戻ったのです。入社してから一年半位が経った頃だったと思います。
障害者だからと変な同情はせず、一般の人と同じように厳しく鍛えていただいていることも、私の成長のために必要です。
少しずつ職場の仲間や取引先の人たちとの何気ない会話もできるようになっていきました。
並行して、今に集中するマインドフルネスやインナーチャイルドを癒すコアトランスフォーメーションのセッションを受けました。
効果はというと、色々同時にやったのでどれが効いたのかは正直わかりませんが、自分の呼吸に意識を集中させることは、落ち着きを得られ、「今ここにいる」感覚を呼び戻してくれます。
ついに十代からの電話恐怖、対人恐怖、外食・会食恐怖、克服しました!
「変わりたい!」
音楽を中断して 2 年が経とうとしていました。
食べ物に溺れ、休日は寝たきりの日々・・・このままだと落ちぶれる一方だと我に返り、自分へのコントロールを諦めたとき、音楽を再スタートさせようと思いました。
自分の中心に焦点を合わせてくれる音楽へ。
1 月から初心者のピアノサークルに参加させていただくことになりました。
申込むのに、2ヶ月位足踏みしましたが、勇気をだして飛び込みました。
6 年前にレッスンで勉強したベートーヴェンのピアノソナタ第 13 番から第 1 楽章を弾くことにしました。
緊張でガクガクブルブルでたくさん間違えましたが、最後まで丁寧に演奏できました。
サークルの方々も温かく聴いてくださり、不完全ながらも一歩を踏み出せて良かったと思いました。
8 月からはドラムとジェンベを始めました。
音楽の鼓動を感じながらリズムを打っていると元気になっていきます。
昔の自分に戻らないようにするためと、「音楽をする人」という自覚を維持するためにも、リズムを無心に打つことは強化につながると信じています。
2008 年から現在までのレッスンや発表などの記録を集めたリストです。ブログに飛びます。
クラシックピアノ | |
ジャズピアノ 1・理論・作曲 | |
ジャズピアノ 2・理論・歌伴 | |
ジャズノート | |
和声学 | |
DTM(Cubase) | |
DTM(ProTools) | |
エレキギター | |
ティンパニ | |
オーケストラ | |
ドラム | |
ジェンベ | |
作 曲 | |
ピアノサークル | |
演奏会・発表会・ライブ |
この 10 年も体重は約 15 kg の幅を行ったり来たりと落ち着きませんでしたが、ある頃から少しずつ「この私でもいい」と思う瞬間が増えていきました。
絶食をやめ、毎食ご飯と味噌汁をしっかり食べるようにしました。
何度も振り戻り、過食が起きても自分を責めず、基本のご飯と味噌汁に戻しました。
体重はみるみる増えましたが、これは脂肪ではなく水分や骨密度が増えてきたにすぎないと、何度も自分に言い聞かせました。
「痩せていた頃のあなたが好きだった」と言われても、しっかり食べました。
長く嫌悪してきた丸みを帯びた身体を感じても、しっかり食べました。
体型の変化から周囲から見たら悪くなっているように見えたのでしょう。
時々子供の部分が暴れても、大人の部分でそれを静観し、無理やり治そうとせず基本に戻しました。
このまま太り続けたらどうしようと、不安になることもありましたが、自分の身体を信じました。
自分に合った体重にやがて落ち着くと・・・。
食べ物だけではなく、不快な感情もしっかり感じるようにしました。
怒り、淋しさ、恐れ、疑心、嫉妬、不安、空しさ・・・、蓋(過食)をせず、感じないように(拒食)せず、無かったことに(嘔吐やチューイング)せず、不快な感情を悪者にせず、それらを味わい、飲み込み、消化しました。
こうして忍耐強く、自分に本物の食べ物(愛情)を与え続けました。
やがて自分の身体を赦しました。
罰を与え続けてきた自分自身を認め、赦すことができたのです。
それと同時に両親を受け入れ、これまでの人生に感謝する念が、自然に沸々と生まれていました。
こんな穏やかな日々が来るとは思いませんでした。
1 ヶ月ぶりに実家に帰りました。 両親に報告したいことが 3 つできたからです。
でもなかなか言い出せず、小一時間ほどたってから、 最近ドラムを始めたこと、これからジェンベというアフリカの太鼓を始めることをまず伝えました。
思った通りの反応、いつも両親は私のやりたいことを応援してくれます。
そして本題の 3 つ目の大きな嬉しいこと、「(摂食障害が)治ったよ」と声にした途端に涙が溢れました。 「え?!本当に?」と母も一緒に泣きました。 耳の遠い父も遅れて泣きました。
「治ったからって何か形にしようと思わなくいい。 今まで通り自然体でいい。 その時心を動かされたこと、好きなことを取り組んでいたら、いつのまにか一段一段ステップアップしているものだ。 一番心配していたことだった、荷が降りたようだ。 お父さんもまだがんばるよ(長生きするよ)」と 86 歳の父。
「毎晩寝る前に祈ってたのよ。 良くなりますようにって毎日・・・ やりたいことに専念できて、世界が広がっていくわね! お母さんもあと 10 年は頑張るからね」と 81 歳の母。
約 25 年間、長かった摂食障害、もうこれに頼らなくても大丈夫という自信。 これからが私の人生。 乗り越えた新しい私で、音楽とともに生きていきます。
「これまでありがとう」と両親に伝え、区切りがつきました。
最高の日だと、3 人で喜びました。
25 年を振り返り、何度も涙しました。
「今、どんな気持ち?」と母。 「わくわくしてきた」と私。
3 ヶ月前までは、「何のために生きているのかわからない」「何しても虚しい」「人が生きる意味を教えてほしい」と相談するほど暗闇にいたのに。
アパートに帰って間も無く、ブルキナファソ産アカジュのジェンベが届きました。
これから、ピアノも続けながら、ドラムと並行して習得に励みたいと思います。
軒並みを歩いていると目に止まるバケツや鉢植
みなジェンベに見えてしまう今日この頃
一般的には年を重ねるにつれ体力の衰え感じるものだと思いますが、私は逆で今が一番身体を動かしやすいです。おそらく年相応の健康体になったのだと思います。
私にとっての音楽とは、生きている実感を得るためと自己表現です。
自分を「生」へと向かわせる音楽、リズムから生気を受け取り、ハーモニーから色彩を描き、メロディから歌を紡ぎます。
最初は独り言だったのが、今では人に伝えることを意識して練習しています。
2018 年 4 月からあらたに勉強していることがあります。
その先生が広島から神戸に来てくださいました。
初めてお会いし、食事をしながら、今後どう生きていけば自分を活かすことができるかを、時間をかけて丁寧に話してくださいました。
私に向ける優しい眼差しが、肯定してくれたと感じ、未来への自分を後押ししてくださった
ような、安堵と勇気をいただきました。
「自分を信じ、努力を続ければ、やがて実るものだ」とのお言葉をいただき、これからも積極的にがんばっていこうと励みになりました。
人との出会いや、さまざまな考え方、失敗から学んだことを取り入れて、自分は変われたのだと思います。
本当にありがとうございます。
2018 年 9 月 15 日 神戸にて
隣の席の仕事仲間 Y さんは音大出身のサックス奏者。
彼女の知り合いが結婚し、翌日に披露宴があるけれど、
台風が来るというので余興の奏者が来れなくなったといいます。
ピンチヒッターで引き受けた Y さんは、サックスの演奏は 3 年振りだそう。
サックスパートを抜いたマイナスワン音源に合わせて演奏することも考えていたようですが、 私に伴奏してもらえないかと遠慮がちに声をかけてくれました。
翌日にいきなり本番は不安だったので、はじめはお断りしましたが、新郎新婦の馴れ初めを聞くと色々な困難を乗り越えて来られた経緯を知り、これも何かのご縁と思い、返事は保留にして楽譜のコピーをもらいました。
仕事から帰ってから音源も送ってくれたので何度も合わせて練習しました。
ゆっくりなテンポの簡単な伴奏ですが、身体に染み込ませるのには時間がかかり、夜を徹しました。
曲は AI の "Story" です。
利害関係のない見ず知らずの人のために、 一生懸命になることは私にとって何かが変わり始めたサインに感じました。
楽な方を選ぶことはできたのに、幸せを応援したい気持ちが上回り、万全体制ではないことを引き受けたのです。
病の中にいた時は人を思いやる余裕がありませんでしたが、 克服した今は、必要とされ与えることができる喜びと感謝の気持ちが湧き出ます。
ぶっつけ本番は色々ミスはしたものの、喜んでいただけたようで良かったです。
幸せな空間で貴重な経験をさせていただきました。
Y さんのサックスは、人柄がにじみ出ていて、温かく伸びやかな音色で素敵でした。
「また一緒に音楽やりましょう」と笑顔を交わし、 心を通わせ素晴らしい日となりました。