第1章 摂食障害 潜伏期

第1章 摂食障害 潜伏期 もくじ

  • まえがき
  • 誕生
  • 乳児期
  • 幼少期
  • 小学生時代
  • 中学生時代
  • 高校生時代
  • 大学生時代
  • インド行脚
  • 自転車日本一周

まえがき

 

摂食障害 25 年、ひきこもり 10 年の克服者、森山 華伊の自分史です。

 

2013 年に公開したこのページは、恐れからすぐにリンクを外し、5 年間眠らせていましたが、

2018 年 9 月 16 日より再び勇気を出し、陽の当たる場所にさらします。

 

 

 

どこまで露わにするか、悩みました。

印象良く見せるために隠しておきたい恥じも多々ありますが、それが人の役に立つことができたなら、

闇から光へと変化していくのではないかと思い、人に迷惑をかけない範囲で書いたつもりです。

 

現在悩まれている方々やご家族、ご友人へ、なにか少しでもヒントや希望になれたらうれしいです。

 

 

 

 

第1 章 摂食障害 潜伏期

摂食障害の発症にいたるまでにどのように生きてきたかを振り返ります。

 

ダイエットや挫折体験などはあくまでもきっかけであり原因ではありません。

 

安心感をベースに自分の存在を肯定できているかどうかが分かれ目だと思います。

 

誕生から幼少期、学生時代、インドや自転車日本一周の流浪の旅までを書きました。

 

1976 年 誕生

 私の両親は再婚同士、それぞれの家庭も故郷もなにもかも捨て、身一つで上京しました。

 十年の恋が成就したものの、縁もゆかりもない都会での生活は苦しいものでした。


 家具といえば、当初はミカン箱でしつらえたちゃぶ台ひとつ。

 何度か流産をしましたが、一緒になって七年目に待望の子を宿しました。それが私です。

 この時、父は 44 歳、母は 39 歳でした。


 生まれる前から名前を付け、お腹の中の私に話しかけ、ベートーヴェンを聴かせては誕生を待ち望みました。

 1976 年の春に、東京都豊島区で私は生まれました。

 予定日より一ヶ月以上も早い、掌に乗るほど小さな 1900g の未熟児でした。

 生まれてすぐ救急車に乗せられ、設備の整った大きな病院へと運ばれ、ガラスの箱の中でしばらく過ごしました。

 父は毎日ガラス越しから見舞いに来てくれました。

 どんな格好をして寝ていたか、ベッドで安静中の母に嬉しそうに話しては、これからの幸せな三人での暮らしに胸踊らせていました。

 

 

 

 

乳児期

 両親の愛情を一心にうけ、すくすく元気に育ちました。

 ある日、家の中にいた虫に驚いた母が、とっさに頓狂な声をあげたとき、よちよちの私はひきつけをおこしたかのようにしばらく目をむき身を固くさせました。

 この頃からすごく感性が鋭かったと、後に母が話してくれました。

 私はお腹が空いて泣くことも、おしめを替えて欲しいとぐずったこともありませんでした。

 

 不足や不快を感じる前に全て母が先読みして用意周到にやってくれたからです。

 私は泣いたり怒ったり、自分の欲求を感じ外へ表現することを知らないまま成長していきました。

 

 

幼少期

 両親は私を育てるために働きづめに働きました。

 日中は託児所や保育園に預けられました。

 私は小学の高学年までの記憶がわずかしかありませんが、人見知りからか保母さんと一度も話したことがなかったことは覚えています。

 子供が遊びまわっている公園が嫌いで、木の幹にしがみ付いて隠れているか、ひとりで遊ぶかで、人の輪に入ることがこの頃から苦手でした。

 もうひとつの記憶は、物心ついたころには毎晩のように静かに枕をぐっしょり濡らしました。

 私の両親は、友達の親御さんよりもずいぶん歳をとっていると感じていました。

 明日にでも死んじゃうんじゃないか、親戚は遠くにいて誰も助けてくれない、一人ぼっちになったらどうやって生きていけばいいのか・・・、こんな心配を寝る前にいつもしていました。

 両親を悲しませたり困らせたりしたら、ショックですぐ死んでしまうと、本気で考えていたのです。
 それがこの頃の私の全てであり、10 年、20 年後も私の根底にある不安と恐怖でした。

 無力の私は従順を決め込みました。

 

小学生時代 1982 ~ 1988

    私はいつも不安でした。

    母はいつもカリカリしていたので、地雷を踏まないようにびくびくしていました。

    私は両親の喜ぶことを先読みして言動を決めていました。

 

    ある時、母が怒らない日ってあるのかな・・・と思い、その日から母を観察してみたのですが、母は毎日私のなにかしらに癇癪を起こしていました。

    今思い返すと、母もぎりぎりのところで必死だったのだと思いますが、当時の私は怒られないようすることに必死、母の機嫌に敏感でした。

    家の中に盗聴器や監視カメラがないか探すほど、母娘との密着が凄まじかったです。

 

 

 母が夕方 5 時頃に仕事から帰ってくる集合住宅の階段を上る足音まで聞き分けることができました。

 

 私は禁止されていたテレビやアニメ、ボーっと上の空の空想のあそびを中断し、足音が聞こえるや否や、ピアノか勉強机の椅子に滑り込み良い子の振りをしていました。

 

 私はピアノよりも外でローラースケートや一輪車に乗ることが好きでした。
 

 母が帰る前に遊びを切り上げて一足先に帰って家中の照明をつけ、テレビもつけておかないと、どえらい鬼の形相で執拗に詰られました。

 母は淋しさの塊でした。

 誰もいない真っ暗で静かな家に帰るのを病的に恐れていたのです。

 

 大人になってから両親から聞いた話です。

 小学 1 年生の運動会で徒競走がありました。

 私はビリから 2 番目に走っていました。

 前を走っていた子が転んだとき、追い抜きのチャンスにもかかわらず、私は走るのをやめて倒れている子に手をかしました。

 最後を走っていた子に抜かれ、転んだ子にも負けて、私はビリになりました。

 この頃からお人よしのところがあったと思います。

 日曜日は両親と教会へ礼拝にいきました。

 最初から素朴な疑問がありました。

 どうして牧師さんはいつも、「感謝しなさい」だの、「愛しなさい」だの、「赦しなさい」だのと話されるのか。

 自然に湧き上がる感情なはずが、教えられてすることと違うと思うけどなぁ・・・。

 不快な感情は、不快と感じる自分が悪いのか、不快の感情を捻じ曲げたり無かったことにして快としてとらえるふりをすることが善なのか?

 生意気な私は礼拝中こんなふうに考えていました。答えはでませんでした。

中学生時代 1988 ~ 1991

 この頃から父と会話ができなくなりました。挨拶も返事さえも。

 思春期によくあることなのかと思っていたら、10 年、20 年経っても変わりませんでした。

 中学生になってもいまだ母に洋服を着せてもらっていました。まさに人形そのものでした。

 20 代になってからも、無意識に母のセンスの洋服を選んでいました。

 中央に私が挟まれるかたちで両親と川の字で寝るのは大学生まで続きました。

 少しでも目の届かい部屋にいくと、母はすぐに探しにきました。

 自分の部屋で寝たいといったときの両親の淋しそうな顔、ある時は「離れるな!」の睨んだ顔。

 その後も、親離れすることに罪悪感がずっと付きまといました。

 

  一方で同級生や小動物をいじめたりして、いつもモヤモヤイライラが燻っていました。

 小学 6 年生の時に父方の祖母が神戸から移り、家族 4 人の生活が始まりましたが、中学 1 年生の時に亡くなりました。

 祖母とも関係がうまくいかなかったです。それが今になっても大きな悔いです。



 部活は最初の数ヶ月はブラスバンド部でクラリネットを吹いていましたが、間もなく受験にそなえて帰宅部になりました。

 

 受験校の大学の教授に弟子入りし、ショパンのエチュードやバッハの平均律、ベートーヴェンのソナタを練習する日々。

 同時に声楽の教授につき、楽典や聴音、コールユーブンゲンの特訓。

 東京の後楽園や要町へ、毎週のように電車でレッスンに通いました。

 

 

高校生時代 1991 ~ 1994

 武蔵野音楽大学附属高等学校ピアノ科に入学しました。

 

 1 学年 80 名足らず、男子はたった 5 名。

 日本全国から未来の音楽家が集まりました。  

 これまでと違ってピアノが弾けて当たり前、しかも同じ志を持ったライバル揃い。

 当時の私のレベルはクラスで中の下くらいでした。

 

 入学して間もなく、ある音楽評論家の本と出合い感銘を受け、往年の指揮者や演奏家の CD を、スピーカーに耳を寄せ狂ったように聴く毎日。

 ある日感極まって図書館の紳士録で著者の住所を調べ、手紙を書きました。

 するとすぐに返事をくださり、その後十数年間文通が続き、その間にも実際に合唱の指揮を通して音楽を教えてくださいました。

 あまりに妄信して、その先生の好みの作曲家や演奏家しか受け付けなくなってしまいました。

 

 

 その余韻というか後遺症は現在もありますが、この時期ほどではなくなりつつあります(今はトスカニーニもブラームスもチャイコフスキーも大好きです)。

 それでも、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、クレンペラー、ムラヴィンスキー、シューリヒト、モントゥ、シゲティ 等に出会えたことは、この先生のおかげであり、人生の宝です。

 

 高校から大学にかけて、音楽という精神世界に救いを求めていました。胎教で聴かされていたベートーヴェンが、やはりダントツ 1 位です。

 ベートーヴェンがいなければ、今の私はいないでしょう。

 

 

 

 この時期、両親との関係のほかに大きな悩みがありました。

 それは性についてです。

 次第に成長して大人になっていく自分の身体に嫌悪感を抱えていました。

 片時も離れることのないこの身体。

 忘れようにも忘れられない、絶えず意識が向くほど一番近い存在。

 女性らしい女性はもちろんのこと、男性に対する怒り。

 笑顔 = 女性という図式があったので、少しでも微笑んだりしたら襲われると信じていました。

 横から見られる身体のラインが恥ずかしく、いつも猫背の姿勢で、緩めの服装で隠していました。

 女性として見られることへの拒絶反応は言葉で表現が難しいです。

 このままいくと、自分か他人を殺めてしまうのではないかと思う程、怒りを抱えきれなくなっていきました。

 ある日、SOS 発信、タウンページで「精神科」の病院を探していたら、それを見た母は「ウチに精神病になるような子はいない!」と怒鳴りました。

 そのまま、この問題を誰に相談することもなく、自分の成長していく身体をどうすることもできず、ひとり自分の肉体に怒り狂いました。

 人と話していても突然あふれてくる涙、嫌なことを言われたのでもなんでもないのに、涙が止まりません。

 この当時は、精神科やカウンセリングに対する偏見があり、現在ほどメジャーではありませんでした。

後に母は、この時のことを悔い、泣きながら何度も詫びました。

大学生時代 1994 ~ 1997

 附属高校から音楽大学ピアノ科へ進学しました。

 新しい友達もできましたが、心の底ではライバル心でいっぱい。

 弱さは見せられませんでした。

 この頃に夢中になったのは、心理学や哲学、倫理学でした。

 ある心理学者の 100 冊は超える著作をむさぼるように読み漁りました。

 それは親子関係の問題が、一貫としたグランドテーマでした。


 もうひとつ夢中になって身を蝕んでいったものが・・・

 

 ある日、この年頃によくある傾向だと思いますが、友達 3 人でダイエットすることになりました。

 他のふたりは、「またお菓子食べちゃった」 (*^_^*) エヘヘと笑って、ダイエットが続かなかったのですが、ひとり私はみるみる痩せていきました。

 1 日 1400 キロカロリーと決め、毎朝お弁当も作りました。

 食品を秤で正確に量り、 0.1 g の誤差も許せません。

 乳製品、卵、魚、肉、豆、芋、果物、野菜、穀物と、バランスも考えて、油は 1 日大匙 1 杯までなど、決まりも完璧にまもりました。

 1 食たりとも 1 寸の狂いもなくカロリー計算を続けました。

 こうして体重は、簡単に 10 kg はストンと落ちましたが、「もっと、もっと痩せなければ」という念がやみません。


 何をしていても、何を見てもカロリーのことが頭を離れません。

 当初の目標体重をきっても満足はなく、自分への要求はエスカレート一直線。

 自分の身体に対するイメージも変わりました。

 身軽で行動範囲も広がりました。

 女性らしい身体から解放されたような気になり、マッチ棒のようになりたい、性の対象としてみられない男の子になりたいと願いました。

 体重や食品の計量やカロリー数、試験の点数、成績の順位といった「数字」に執着していきました。

 同時に夕食後のウォーキングも、はじめは 40 分でしたが、次第に 60 分、90 分とペースとともに増し、休日では毎食後 90 分、 1 日 4.5 時間を時計並みの正確さで、毎回同じコースを歩きました。

 それは天候や体調に関係なく、強迫的な習慣となりました。

 この食事や運動を続けることが第一優先となり、人との交流が煩わしく電話のベルにも怯えるようになりました。

 私の分単位の緻密な習慣が崩されてしまうと脅威に感じていたのです。

 何かに邪魔されて食事やウォーキングの時間がズレたことが何度かありました。

 その時は内心ヒステリックにパニックになって、次からさらに決まり事を厳しくしたりして心のバランスをとっていました。

 外食もできなくなったため、友達との付き合いもなくなりました。

 母の手料理も受け付けなくなりました。

 この強迫的習慣はこれから何年も続きました。

 ダイエット狂は、現実世界の向き合わなければならないことから目を背けさせてくれます。

 頑張っただけ、成果が目に見えます。

 身体が軽くて、試着しなくても好きな服が買えて、お腹や腕の肉をつまんで溜息つくこともありません。

 ダイエットや運動には、あるところまでいくと脳がハイになるといわれます。

 この「快感」を忘れることができず、どこまでも追い求め、終わりはなく、止められないのです。

 逆に、この「快感」を知らなければ、ここまでのめり込むことはなかったのでしょう。

 ダイエットに狂いながらも、勉強やピアノも必死になりました。

 父は私の学費と生活のために長距離トラックに乗り、日本国中を走り回っていました。

 生活リズムはバラバラで家族で顔を見合わせて会話するタイミングも心の余裕もありませんでした。

 母のピアニストへの若かりし夢は、娘への大きな期待へと拍車をかけました。

 寝る間も休日もない父と、娘に人生をかける母。

 重圧の日々・・・。

 体重は 28 ~ 29 kg(身長 156 cm)まで落ち、学校の成績順位が 1 桁にまで上り詰めた途端、鬱になりました。

 ピアノのふたも開けられなくなり、テレビを見ても笑えない、生理は止まり、皮膚は黄疸になり、目は虚ろ、声はうまく出せなくなり、髪はたくさん抜け落ち、踵はひび割れてすぐに出血しました。

 大学 3 年生のとき留年がきまり、プライドの高さから退学の道を選びました。

 

 

インド行脚 1997/02/27 ~ 1997/04/06(20 ~ 21 歳)

  一晩のうちに金縛りに何度もあうことがよくありました。

  たしかあの時もそうでした。

  夢と現実の間をうつらうつらとまどろむ中、インドへ行く夢をみました。

  「これだ!」と直感した私は、翌日にはパスポートやビザの手続きに走っていました。

  海外は初めて、ヒンズー語はもちろん英語もできないことも忘れて。

  「なんとかなる、ここに何かある!」

  困難な境遇に身を置いて、「生きるとは何か」の問答をしたかったのです。

  もちろん両親には秘密です。

  しばらく留守にすることを置手紙にして、逸る気持ちで家を出ました。

 

私の行き当たりばったり 40 日間 インド鉄道の旅コース

成田 ~  デリー +++++ ジャイプール +++++ アーグラー +++++

 

カジュラホ +++++ サンチ +++++ アジャンタ +++++ エローラ +++++

ムンバイ +++++ チェンナイ +++++ ダージリン +++++

 

カルカッタ +++++ ガンジス河 +++++ デリー  ~ 成田

 

 何度かインド人のご家庭にお世話になりました。

 子供たちと一緒に料理を作ったり遊んだりもしました。

 生水は飲んではいけないとガイドブックに書いてあったのですが、御呼ばれされたこともあり断れず、生ものの飲食もしました。

 サンチで家庭料理をごちそうになった晩、ベッドで横になっていると、急速に熱が上がり切り、体中の血液が異常に騒ぐのを感じ、天井に張り付いて動かない桃色のトカゲを見つめながら、「このままここで死ぬんだな・・・」と思いました。

 幸いなことに翌朝目覚めると、熱は下がり平常に戻っていました。

 帰国当日は、マトンのカレーを食べてひどい嘔吐と下痢になりましたが、外国人の方が病院に運んでくださり、なんとか日本へ帰ることができました。

 これで免疫がつき、身体も丈夫になったのではないかと思います。



自転車日本一周 1998/01/01 ~ 1998/08/19 (21 ~ 22 歳)

 インド行脚から帰国後、未だ悶々とした日々を送っていました。

 この人生で何がしたいのか、何ができるのか、生と死、善と悪とは?音楽とはなにか・・・。

 ぬるま湯につかっているように無感動で与えられるだけの日々、我慢できない。

 

 美しいとは、果たして本当に美しいのか、永遠に、絶対に、万人に美しいのか。

 私はどうしても知りたかった。

 汚いものに憧れた。

 そこに答えがあると信じ、インド行脚から翌年、自転車に寝袋、テント、自炊道具を積んで旅に出ました。

 もちろん、両親には秘密で。

 1998 年の元旦に、埼玉県所沢市から太平洋に向かって出発。

 富士山の麓に着くころ、記録的な大雪が降るとは知らず・・・。

 日本中のたくさんの人々に励まされました。

 私のくたびれた自転車を見て、「うちに泊まっていきなさいよ。」と、食事からお風呂から世話してくださるご家庭もありました。

 母と同じくらいの年齢の女性と一緒に、布団ひとつで寝たこともあります。

 海岸線の国道を主に走りましたが、日本国中何十人もの長距離トラックの運転手さんが、運転席から「がんばれ!」のサインをくれたこと、脳裏に焼き付いています。

 答えを見つけるはずだった旅ですが、日本国中どこを探してもありませんでした。

 それは一番近い自分の中にあったからです。

 

 

 


 

 

読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

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第2章 摂食障害 闘病期



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